ナンパコッタ

例えばそんなナンパ

言葉の意味と強さ

年始もあっという間にもう暦上は立春を過ぎている。一人の若者が死んでしまった。深夜の1通のラインで知り、一本の電話で確証を得る。「やっちまったな」というのが僕の率直な感想であり、遺書も残さずにネクタイで首を吊ったという彼の死に様というのは生前の彼を知っていた僕としては納得してしまうような死だった。彼の人間性や美徳や非道さはさておき言葉に力を乗せるのが上手かった人だなというのが一番の印象だ、頭がいいとか弁が経つとか気が利くとか多用な人の性質があると思うがコミュニケーションにおいて人を動かす力があるのはそんなものではなく相手の意志を奪うような暴力性。狂気とのバランス感覚。公家シンジさんのナンパ講習動画で「相手の意志を蹂躙するが如く話をしろ」と講習生にアドバイスしている部分がある。その言葉を思い出す。

 

 例えば小さな子供、動物なんでもいい、悪いことをして君が怒る立場にいるとする。「〜であるがゆえに、君はこういった行動をし、それが瑕疵になり他人(もしくは私)に迷惑を掛けている」という理屈を展開したとこで世界は平和にもならないし、相手が納得することは殆どない。慰安婦問題も理屈ベースの実質的な謝罪はできてるが当事者達の負の感情は生涯収束することはない。

 

人間というのは理屈で動いていない

 感情ベースでの会話こそ人に対して何かを働きかけたり惹きつける時に有効だ。うんざりする話だが経験上そうだ。もっと優しく言えば、誰かに自分の話を聞いてもらいたい時に「ちょっと話聞いてもらえない?」なんて生易しくてまどろっこしい真似をするより「やばいって!ほんとに!」みたいな。シェリルノーム的に言えば「私の歌を聞け~!」みたいな指向性や意志をもつべきである。自分の感情を伝えた方が相手はこちらの話にトランスできる。

 

つまり何かを生の言葉として伝えるには理路整然としたものではなくていいということだ、指向性や熱量がものを言ってしまう。一つ一つの言葉を汲み取って真意を図るなんてことは受け手の理解力や想像力に依存してしまう。嘘も真実もその言葉に込めた力に比べたら大した意味などもたない。


僕にはそういった強引な人間の屁理屈の捲し立てにうんざりして反吐がでるが対人間には実用的と認めざるえない、そうやって世界は回ってるし、彼は僕に「もっと感情的に自分を開放した方がいい」と何度も言っていた。

そんな彼から学んだことに対する僕の見解や手向けになるのか分からない文章をここに寄稿する。